【青森県の魅力を紹介!!】今年で文献登場300年~青森県ねぷた・ねぶたの起源・変遷~ - 大学生の下剋上勉強法

【青森県の魅力を紹介!!】今年で文献登場300年~青森県ねぷた・ねぶたの起源・変遷~ 

趣味

(※この記事でわかること)
この記事では、青森県の有名な祭りであるねぷた、ねぶた祭りの概要をおさえつつ、その起源や変遷について、まとめています。

はじめに

みなさんこんにちは。たいやきです。

突然ですが、みなさんは、青森県のねぷた、ねぶた祭りをご存じですか。

津軽地域の各地域で、7月の下旬から8月の初旬までおこなわれる祭りです。

弘前市のねぷた祭りや青森市のねぶた祭りなどが有名ですね。

弘前ねぷた
青森ねぶた

なお、弘前ではねぷた、青森ではねぶた、といわれています。

ところで、みなさんは、これらの祭りがどのようにはじまったか知っていますか?

実は、特に弘前ねぷた祭りは今年2022年で文献登場300年なんです!!(1722年の享保7年に弘前藩庁「御国日記」に初めて記録として登場します。)

世界的なコロナウィルスの蔓延によって開催されるかどうか、まだ不安定ですが、ここでこの節目の年に、その起源や歴史を考えてみるのはどうでしょう?

各地域のねぷた、ねぶたの紹介

まずは、各地域の主要なねぷた、ねぶた祭りをおさえておきましょう。

青森ねぶたまつり

8月2日から7日まで6日間行われます。

1日に「ラッセランド」で前夜祭が行われます。

7日は昼に運行し、夜間には賞を受賞した7団体のみ参加できます。

これは海上運行といわれ、花火の打ち上げを背に、ねぶたを船の上に載せ、青森の海上を漂いながら運行します。

この祭りは青森の街ができてから自然発生的に行われるようになり、民俗風習として始まった祭りで、「市民による市民のための祭」として自由な祭りとしています。

「青森ねぶた実行委員会」が主催しており、衣装さえつければ「ハネト」として誰でも参加可能で、費用さえ用意できれば運行団体として参加可能です。

毎年300万人もの人が観光に訪れ、大きな観光資源となっています。

運行形態

先頭から、

① 前ねぶた、バケト(仮装した人々)

スポンサーの会社のマークやテレビの人気キャラクターを灯籠にした物が運行され、仮装した人々は祭りを盛り上げるのに一役買い、観客の笑いを誘います。

② 運行責任者・役員

③ ハネト

青森ねぶたの特徴です。浴衣をきて、頭には花笠をかぶった人々が左右交互に二回ずつ飛び、「ラッセラー、ラッセラー」とかけ声をします

④ ねぶた

「扇子持ち」と呼ばれるねぶたを誘導する人の合図を受けた曳き手(ねぶたを引っ張る人)によってねぶたが左右、回転し、まるで「生きている」かのように動きます

⑤ 囃子方

太鼓、笛、鉦を各自リズムにあわせて演奏します。派手で陽気な陽旋律を奏でます。青森ねぶたが「凱旋」のねぶたと言われる所以ですね

このような流れになっています。

・青森ねぶた(山車)について

材料は支柱となる木材、人形をつくる針金、そして紙です。

中に電球を取り付け、配線が施されています。

台車を含めて幅9メートル、奥行き7メートル、高さ5メートル、発電機も含めて重さは4トンです。

題材は歌舞伎や日本神話、三国志、水滸伝が使われます。最近では地元の縄文文化や、エジプトを題材としたものも出現していたりします。

1台につき1~3体の人形が置かれ、後ろの部分は「おくり」とよばれ、本体と関わりのあるモチーフが使われ、小型の人形ねぶたが置かれます。詳しい作り方については後述します。

弘前ねぷた祭り

8月1日~7日まで行われる。何日かに分けてコースが変わり、最終日の7日は昼間運行で、夜は岩木川河川敷で数台のねぷたを燃やし、フィナーレを迎える。約80団体が日にちを分けて運行しています。

運行形態

①町印

各町内の字をかたどった灯籠や、シンボルなどを取り入れるものもあります。

②前ねぷた

担ぎのものが多いです。普通のねぷただけでなく、人気キャラクターや馬ねぷたに人間が乗っているものなど工夫をこらしたものが多数存在します。

③大型ねぷた

「ヤーヤドー」というかけ声をしながら、運行していきます。

④囃子方

青森の陽旋律に対して、勇壮で哀調な陰旋律を奏でます。弘前ねぷたが「出陣」のねぷただと言われる所以です。

このような流れになっています。

弘前ねぷた(山車)について

人形型が多い青森のねぶたと大きく違うのは、弘前は扇型が多いということです。

大きさは各団体で分かれます。また、他の違いとして後ろの部分は青森では「おくり」といって人形ねぶたが配置されることに対して、弘前では「見送り絵」として、美人画が描かれるということもあげられますね。

ねぷたの形態(扇ねぷたと人形ねぷた)

ねぷた本体には二つの形態が存在します。主に弘前では扇ねぷた、青森では人形ねぷたが運行されています。

この理由についてはいくつかの説が存在しますが、代表的なものは、県庁移転による財政の問題が影響したという説です。

明治維新後、武士階級の没落で城下町の機能が低下、また県庁は青森に移り、弘前は寂れてしまいました。

ねぷたを作るには大きな負担がかかるため、弘前では安くつくれる扇ねぷたに移行したのではないか、という説です。

対して青森では県庁が移り、お金をたくさん使えるため人形ねぶたが主流になっていったと考えられています。

ねぷた、ねぶたの作り方

では、これらのねぷた、ねぶたはどのように作られているのでしょうか?

・扇ねぷたの作り方

  • 下絵を描く

原画の構図を決める作業です。基本的に題材は絵師が決めるが、団体で要望があるときもあります。

  • 下描き

和紙を骨組みの大きさに合わせてつなぎあわせ、下絵をもとに、鉛筆で描いていきます。

  • 墨描き

墨汁を使用し、必要に応じて筆を大・小使い分けます。始筆、終筆に気をつけ、輪郭をとっていきます。

  • ロウ描き

パラフィン(ロウソク)を溶かして液体にした後、墨描きした線の縁取りや、着物の模様などを描いていきます。これによって、①照明が入ったとき明るく見える、②紙を丈夫にする、③染料のにじみを止める、などの効果が期待できます。なお、時間がたつと固まってしまうため、筆につけてからすばやく描く必要があります。

  • 色塗り

染料を使います。筆の半分に水、半分に染料をつけて描く「ぼかし」によって立体的に見せることができます。色のバランスなどに気を配りながら塗っていきます。

  • 紙貼り

・人形ねぷた、青森ねぶたの作り方

  • 下絵を描く

扇ねぷたと同様、三国志、水滸伝等から題材を選び、構想を練ります。作品の設計図のようなものです。

  • 細部の下ごしらえ

自宅、または自身の工房で面、手足、刀などの細部をあらかじめパーツごとに作っておきます。この作業はまだ寒い時期から始められる。

  • 小屋がけ

基本絵師は関わりません。特に青森では観光物産館アスパムの周辺に作られる、ラッセランドと呼ばれるものがゴールデンウィーク中に作られます。他の地域では町内の大人が協力して毎年作っていて、骨組み自体は一年間そのままにして、祭りの後、ブルーシートのみを取り除く地域が主です。

  • 骨組み

角材で支柱を作り、周りに針金で形作っていきます。針金同士はたこ糸とボンドでつなぎます。この工程で筋肉などを形作り、ねぷたの動きが見えてきます。

  • 電気配線

骨組みの内部に照明用の配線を施します。青森ねぶたでは、一台に専門の電気工が20~1007Wの電球を800~1000個取り付けられます。

  • 紙貼り

骨組みに奉書紙を張っていきます。根気のいる作業で、女性が主に担当します。

  • 書き割り

扇でいう「墨描き」です。墨汁で顔や手足、襟、帯などをかき分けます。この工程でそれぞれのねぷた師、ねぶた師の特徴が出てきます。

  • ロウ描き

扇ねぷたと同様、パラフィンを溶かして、着物の柄などの模様を描いたり、墨書きの線に沿って線を描いていきます。

  • 色つけ

染料、水性顔料で全体的に彩色を行います。特徴的なのは筆のみではなく、スプレーも使用するという点です。また色をしっかりつけるため、二重三重に重ね塗りする場合もあります。

  • 台上げ

高さ2メートルの車つきの台に上げます。全体の高さは5メートルになります。運行団体の50人ほどの人が行っています。

  • 台化粧

台車にねぷた、ねぶたのタイトルを掲げ、提灯などをつけます。

ねぷた・ねぶたの様々な起源説

このようなねぷた、ねぶたですが、以下ではその起源についてみていきましょう。

①農業祭からの派生説

まずは、農業祭の派生説というものがあります。

西暦6世紀頃、日本にインドから仏教が伝来し盂蘭盆会が浸透し、仏教の興隆とともに8世紀頃広まっていきました。

そして、旧暦7月を中心として盆行事が行われていました。

ねぷたの起源に関わりがある行事として、この行事については様々ありますが、代表としては「眠り流し」と言われる物があります。

これは暑さの厳しい、しかも農作業のある夏期におそってくる睡魔を追い払う行事のこと。

各地方で水浴び、火祭りが共通しており、ケガレをすすぎ落とし、清めるようにするという考えが根底にあるといわれています。

なお、15日の盆日を支障なく行うため、7日から一週間かけて行われていました。

また、「二星祭」というものがあり、俗にいう七夕祭りです。

これは元々主に貴族の祭りであり、庶民は参加していませんでした。

参加するようになったのは江戸時代以降で、本来の意味である、「願い事を短冊に書いて笹竹につるす」という行為は主に都市でしか行われなかったんです。

対して地方では、全く別の行事であり、水浴びに関する行事が多いんですね。

元々インドも日本も農耕民族であるため、農業祭として自然と行われるようになったのではないかと考えられています。

「眠り流し」と「二星祭」からねぷたに派生したのであれば、もともとねぷたまつりが「七夕祭」といわれていたことにも納得がいきます。

現状、この説がもっとも有力だとされています。

②為信の大灯籠説

また、為信の大灯籠説というものもあります。

天明・寛政期(18世紀)、津軽藩の粗ともいわれる津軽為信が豊臣秀吉に京都で謁見する際、田舎者の気概として盂蘭盆会に関して大灯籠を作って都の人々に見せ、注目を集め驚かせたことが起源であるという説です。

しかし、確かに為信はこの時期に秀吉に謁見はしているが、当時京都ではすでに「灯籠祭」が行われていたという記述があります。

そのため、学者のなかではお国自慢として灯籠をつくっても注目を集めるとは考えにくいとされています。

また、この案を出したのは津軽藩の重臣・長門守という人物だといわれていますが、この時期にはまだ為信には仕えていないため、信憑性は低いといえるでしょう。

③坂上田村麻呂説

古代の征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際、敵をおびき出す作戦で灯籠をつくったのがはじまりだとする説です。

後に、敵の蝦夷がまねてねぷた祭りを行うようになったといわれています。

研究者のなかでは、津軽の人々は郷土の事物を誇張し、他地方の人々に誇ろうとする性格があり、ねぷたの起源を禊ぎ等に求めてしまうと特徴が無くなってしまうと考え、為信や田村麻呂といった「権威」を使おうとしたのではないかと考えられている。

現状、文献史学や考古学的成果などから、田村麻呂が青森県に来たという証拠はないので、こちらも厳しいですね…

④野元道玄説

また、この野元道玄説というものもあります。

まず、前述のように、ねぷたについての正式な記述は享保時代が最古です。

この時代は、津軽藩の時代。

藩政時代の代表的な史料は、

  • 比良野貞彦の「奥民図彙」
  • 菅江真澄の「紀行文」
  • 二藤白龍の「津軽俗説撰」

などが挙げられます。

享保時代以前からねぷた祭りは行われていた可能性はありますが、途中で大きな出来事が起こったことがわかります。

藩の日記方が、当時の津軽藩5代藩主津軽信寿が「織座」で見物するようになった、と記述しているからです。

藩主が見物し始めるということは何らかの理由があったと考えるのが自然でしょう。

近年では、そこに起源があるのではないかという説が出てきているのです。

4代津軽藩主信政のとき、津軽藩は発展しました。

政治、学問、芸術などの多数の分野で優れた人物を招き藩の興隆に努めたためです。

その一人に京都から来た野元道玄(1655~1714)という人物がいました。

彼は養蚕の技術指導を行った人物です。

津軽は昔から養蚕を奨励していたが成果は上がりませんでした。

そんな津軽において、彼は10年ほど仕事に熱心していたとされます。

このとき、野元が故郷京都を思い出し、盆灯籠を津軽で始めたのではないか、という説です。

野元は藩主から信頼されているため始めるのはたやすく、「織座」で藩主が見物になったのも説明できます。

この説については、未だ検討例が乏しいですが、今後このような説についても、今後検討していくべきでしょう。

ねぷた・ねぶたの歴史

このように、様々な起源説が考えられていますが、その後の歴史はどのようなものだったのでしょうか?

①江戸時代以降

このころから盛んに行われ始めたとされていますね。

また、事故やトラブルの元になるとして警察による「ねぷた禁止令」が多発し、処罰されたという記録が頻出しています。

現在では扇ねぷたは弘前、人形ねぷたは青森というイメージですが、最初はどこも人形ねぷたが主流で、扇ねぷたは小さいものしか有りませんでした。

これは①当時の祭礼の山車に影響された、②他地域の灯籠に影響された、というような理由が考えられています。

大きさは4メートル~9メートル級のねぷたがあちこちで運行されていました。

すでに「囃子」は存在していたと考えられていますが、明確な記録は存在していません。

現在ではフィナーレは夜の内に迎えるが、このころは朝まで続いていたとされます。

なお、その後山車本体は次第に大型化していきました。

初期は一人ねぷただったのが、幕末になると二人組の単純な構図へと変化していきました。

②明治時代

町が競って30メートル級のねぷたを作ったとされていますが、「取締規則」が登場し、1台ごとの許可制になり、大きさ・高さも制限されました。

なお、この時期もいくつかの禁止令が出されています。

市街で電線が発達したため、大きさは小型化していきました。

③大正時代

合同運行がはじまります。

この時代では、一人担ぎで運行する形態が流行しました。

このころ青森、弘前では共に、後に「名人」と称される人々が出現し始めます。

また、弘前では「ねぷた喧嘩」が起き始めます(後述)。

④昭和時代

団体が50を超えたといわれています。

なお、戦時中は中止されました。

青森では「戦後復興港祭り」としてねぶたがつくられ、運行されていました。

もともと旧暦7月3日~7日に行われていた「青森港祭り」を変化させたもので、昭和30年から新暦7月3日~7日に行われるようになります。

このころから昼間運行する「なぬか日」が始まり、祭りがショー化し始めました。

青森では公共団体、企業団体のねぷたが増え、弘前では町会が主になりました。

また、賞で評価し、懸賞金をあたえる制度が生まれました。

照明はロウソクだったのがバッテリーを積むようになったのも特徴ですね。

1980(昭和55)年に国指定重要無形民俗文化財に認定。

ねぷた喧嘩

ねぷたの歴史を語るうえで重要なキーワードが「ねぷた喧嘩」です。

弘前では、明治期から各団体で互いのねぷたを壊し合う「ねぷた喧嘩」が起きていました。

弘前城を中心として東方を町方の上町、西方を士族の下町として、主に対立していました。

この二つの区域は生活意識や気風に微妙な違いがありました。

上町は、弘前の繁華街が多く存在し、富裕な大商人が店舗を構えていました。

つまり経済の中心であり、経済的優位にあったといえます。

対して下町は共同意識が強く、士族の子弟は精悍を誇っていました。

喧嘩は「相手のねぷたを壊す」ことがあくまで目的であり、決して人を傷つけることが目的ではなかったとされます。

内容としては、夜通しで一進一退の攻防を続け、優劣を決していました。

もともと遺恨があっての戦闘ではなかったため、玉砕する必要はありませんでした。

そのため相手が引いたと思えば攻勢に転じる、というやりとりを繰り返していました。

重要な点として、根底に「引く」というケンカの作法が存在していたためにねぷたが「祭り」として存在できていたと考えられています。

ケンカに参加したのは主に剣術道場の者、または平民の家中の二男、三男でした。

理由としては、①ねぷた喧嘩に関係すると、家禄が没収された、②廃刀令によって剣が衰微し、対抗しようと道場が生まれはじめ、様々な流派が生まれるとともに各道場で対抗意識が生まれていった、などが挙げられています。

弘前の人々は喧嘩で壊されるねぷたが、扇型であれば人形型よりもお金がかからず、すぐに作成することができ、ケンカに適すると考え、広まっていきました。

これも、弘前で扇型のねぷたが広まった理由の一つとされていますね。

当時の警察は喧嘩をやめさせようと様々な案を試みたが失敗に終わっていました。

しかし、大正3年、発令した「ねぷた注意書」によって初めての合同運行が行われました。

これは警察の指揮のもとで全市内のねぷたがそろって定められたコースを合同運行するというものでした。

これによって喧嘩は次第に少なくなり、やがて消えていきました。

また、この合同運行によって、警察署を折り返し地点として今までに無かった「戻り」の感覚が生まれたのも事実です。

それまでは「進行」、「休止」の二つの囃子しかなかったのが、「戻り」の感覚とともに、囃子も誕生しました。

メロディーは当時すでに行われていた「お山参詣」の囃子を誰かが吹き始めたことが由来だとされています。

そのため現在の弘前のねぷたの「戻り」の囃子は、お山参詣の「下山囃子」にどこか似ています。

ねぷたの題材

上記でもねぷたの題材については少しずつ触れていましたが、ここでその歴史についても触れておきます。

藩政期には天狗と牛若、弁慶、恵比寿大黒などが使われ、狩野派、大和絵派、錦絵派等が混在していたとされます。

明治になると本来の目的である「悪霊退散」に加えて、「国際主義」、「軍国主義」などが加わり、武者絵などの勇壮なものが好まれるようになっていきました。

絵師は職業的絵師ではなく、町内の有志であったため、①勇壮、②優れた絵、③入手しやすいという条件のもと、歌川国芳の「水滸伝」、葛飾北斎の「三国志」などが好まれ、多く使われていたといわれていますね。

ねぷた、ねぶた名人

また、ねぷた、ねぶたの製作者には、名人とうたわれる方がいました。

ねぷた、ねぶたの歴史を語るうえでは重要なので、ここでまとめておきましょう。

青森、弘前共に名人とよばれる人々が、大正から昭和にかけて出現し、活躍していました。

ねぷた・ねぶたは、もともとねぷたが好きで手先が器用で絵が得意な人が中心となって作っていました。

しかし中心となる人々は、道楽者として蔑んで見られていたとされます。

明治時代にはねぷたの制作を請け負う名の知れた制作者が登場します。

戦後になると制作技術が向上し、プロが登場します。

そのなかでも優れた作品を生み出した人々が名人と呼ばれたんですね。

現在のねぷた・ねぶた祭りはただの観光資源だけではなく、制作者の高い技術がうかがわれる場ともなっています。

以下では、青森と弘前を例に、代表的な人物をみてみましょう。

・青森

初代名人:北川金三郎

 1959(昭和34)年に認定。1880(明治13)年に生まれ、左官屋として成功。同じ町内の坂田金作に造りを学ぶ。観客の目に映えるように常に探っていたとされます。新しい素材や技術を意欲的に取り入れ、後の名人北川啓三(息子)、佐藤伝蔵など多くの弟子を育てあげました。青森ねぶた中興の祖と呼ぶべき存在でした。1960(昭和35)年に他界。

二代目名人:北川啓三

 1905(明治38)年に生まれた、金三郎の次男。12歳から父に学んでいました。大正末期、左官業の修行で東京に行き、よく歌舞伎を見たとされます。とても厳しい人柄だったといいます。1962(昭和37)年、「村上義光吉野の関所」(日通)で第一回田村麿賞(当時の最高賞)を受賞しました。1988(昭和63)年に他界。

三代目名人:佐藤伝蔵

 1925(大正14)年に農家に生まれました。船舶兵になった後、敗戦後帰郷。1968(昭和43)年、「草薙の剣」(東青信用組合)で初田村麿賞を受賞します。1972(昭和47)年に沖縄返還を受けて製作した「国引」(日立連合)は田村麿賞受賞後、歴史的名作として現在も県立郷土館にねぶたの面(顔)が保存されています。

 

四代目名人:鹿内一生

 1925(大正14)年に農家に生まれました。本名は勝男。東京で就職しましたが、肺結核で帰郷し、他の仕事で食いつなぎながらねぶたを制作しました。1965(昭和40)年、「三国志呂布関羽奮闘の場」(消防第三分団に組)で田村麿賞を受賞しました。馬を用いた題材が得意でした。1989(平成元)年までねぶたを制作し、1990(平成2)年に名人になりました。その後1991(平成3)年に亡くなりました。現在では「我生会」として鹿内の技術を受け継いだ者達が弟子として活躍しています。

・弘前

  • 竹森節堂(1896~1970)

はじめ狩野派の絵画技法を学びました。大正中期に上京、日本画家の道へ進みました。ねぷた絵を描きだしたのは終戦後から。絵だけではなく扇型の骨組みにも工夫をこらし、それまで縦長だったのがカーブの形を緩くして現在の扇型の基礎を作ったとされます。

  • 石沢龍峡(1903~1980)

日本画家として修行を積んでいたが、戦後弘前に引き上げ、ねぷた絵を描き始めました。豪快なねぷた絵であり、下書きなし墨書き一回勝負で描いていたとされます。

  • 阿部義夫(1928~1989)

節堂の絵に影響を受け、ねぷた絵を描きました。凧絵や錦絵の修行もしていました。そのため、現在の凧絵の描き方に通じるような顔の描き方が特徴的です。

おわりに

みなさん、いかがでしたか?

ねぷた、ねぶたには様々な起源説があり、とても興味深いですよね。

また、「ねぷた禁止令」が出されてもなかなか効果がなかったことからわかるように、昔からねぷた・ねぶたは津軽の人々の心のなかに深く根づいていたものだったと気づかされます。

今後、この先人たちが作り上げてきたこのねぷたという文化財を大切に残していく必要があるでしょう。

世界的なコロナウィルスに負けずに。

この火を絶やしてはならないのです。

現状、費用が足りない、少子化などの理由で参加台数が減っているという声もあるそうですが、これらの課題に対してどのようい立ち向かうか。

コロナウィルスの蔓延は、ある意味でねぷた、ねぶたの保存・継承に意識を向けさせたイベントであったといえるでしょう。

筆者は、ねぷた、ねぶたは大切な文化財であり、私たちの誇りであると共に、子どもや大人の世代を超えた交流が可能な数少ない貴重な場だと考えています。

ねぷたが「地域」や「世代間」の団結に一役買っているという意識を再確認し、みんなで残していこうという意識を持つことがこれから必要ですね。

参考文献

松木明知『「ねぷた」―その起源と呼称―』、青森:津軽書房、2006年

大條和雄『ザ・ねぷた』、青森:水星舎、1982年

藤田本太郎『ねぶたの歴史』、青森:弘前図書館後援会、1976年

河合清子『ねぶた祭―“ねぶたバカ”たちの祭典』東京:角川書店、2010年

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