【知っておきたいアイヌの魅力】ゴールデンカムイの世界・アイヌ文化について~アイヌ文化の成立編~ - 大学生の下剋上勉強法

【知っておきたいアイヌの魅力】ゴールデンカムイの世界・アイヌ文化について~アイヌ文化の成立編~

アイヌ

(※この記事でわかること)
この記事では、アイヌ文化のなかでも、その成立の背景についてまとめてあります。

はじめに

みなさんこんにちは、たいやきです。

みなさんは、アイヌ文化をご存じですか?

ゴールデンカムイが話題になっているいま、その注目度は高いといってよいでしょう。

今回は、そんなアイヌ文化の、特に成立について紹介していきたいと思います。

なお、参考にしたのはこの本『モノから見たアイヌ文化史』です。

現在における考古学的観点からのアイヌ文化研究の到達点といっていいでしょう。

これを読むと、これまで知らなかったアイヌ文化の隠れた魅力を知ることができます。

興味があったら、みなさんも、ぜひ読んでみてください。

アイヌって?

まずは、アイヌについておさえておきましょう。

アイヌとは、主に北海道島を中心に、南は本州北部、北はカラフト南半、東は千島列島において居住していた人々のこと。

北太平洋先住民族の1つとして捉えることができます。

また、そのような北太平洋の民族的世界を有していたアイヌの人々は、地理的に中国や日本から離れた辺境民であり、北東アジアの国家的世界と北太平洋の民族的世界とを繋ぐ特殊な民族でした。

加えて、多くのアイヌ民族が生活していた蝦夷地は、シルクロードを通して渡ってくるガラス玉や蝦夷錦の道の終着点でもありました。

そのような品物は異国を連想させるものであり、当時の日本国家が強い関心を示したであろうことは想像に難くないでしょう。

このような点からも、当時のアイヌ民族が、北太平洋の民族的世界と国家的世界と結ぶ存在であったことが窺われますね。

アイヌ文化成立の背景とは?

では、どのような背景のもとで、アイヌ文化は成立したのか?

結論から述べると、アイヌ文化は、3つの要素が関わって成立しました。

すなわち、約13世紀ころにおいて、

①列島規模で展開し始めた中世的日本海運の北上

②サハリン島への進出に伴ったアムール女真(大陸)文化の南下

③北海道島においてすでに広まっていた擦文文化

この3つの影響があって、形成されました。

以下では、具体的にみていきます。

①擦文文化の影響

擦文文化は、主に7世紀後半における北海道において、前代の続縄文文化の終焉を受けて成立した文化で、7世紀後半~8世紀の早期、8~9世紀前半の前期、9世紀後半~10世紀の中期、11~12世紀の後期といった4時期に区分されます。

また、その終焉は主に土器の消滅をもって語られることが多く、道南・道央では12世紀代、道北・道東では13世紀代であるとされ、地域によってズレがみられます。

擦文文化からアイヌ文化への変化といった点に関して、前代から継承された部分としては主に生業面を挙げることができます。

特に、アイヌの人々は、対和人交易を前提とした狩猟・漁撈活動や焼き畑(小規模な農耕)を行っており、これらは擦文文化を踏襲したものであると評価することができます。

また、そのような生業に関連して、精神面においても縄文時代以来の狩猟・漁撈民特有の宗教観を抱いていたことも知られています。

しかし、そのように連続性が認められる点に対して、大きく変化した点も認められます。

特に、もともとは竪穴住居+土器であったのが、アイヌ文化では平地式住居+鉄鍋といった組み合わせへと変化し、生活様式が大きく異なっている点があげられます。

このような変化は本州においても認められますが、特に本州では11・12世紀代に一度土師器と鉄鍋が共伴し鉄鍋へと移行するのに対し、北海道ではそのような共伴の例がみられず、13世紀後半以降において土器から鉄鍋への移行がスムーズに行われます。

加えて、墓制に関しても大きな相違点を指摘することができるんですね。

アイヌ墓は長方形の墓坑を掘り形成され、遺体は伸展葬で土葬されます。

そのため、そこには擦文文化における「廃屋墓」との連続性が認められ、基本的には擦文文化期の墓を踏襲しているといえるでしょう。

しかし、アイヌ墓には豊富な副葬品が納められており、この点において擦文文化における墓制とは大きく異なっているのです。

アイヌ墓における副葬品としては、主にマキリ(小刀)60%、漆器50%、太刀・腰刀40%、キセル20%、その他(鉄鍋、山刀、首飾り、耳飾り、矢、釣り針)10%などがみられます。

また、本州における中世墓では多くみられる六道銭がアイヌ墓ではほとんど出土しません。

先にみたように、アイヌ墓では鉄製品が豊富に出土している点をふまえると、この点はアイヌの人々が仏教を受容しなかったということを示していると考えられます。

さらに、この副葬品といった点に関して、先述したような鉄製品以外にも、漆器やガラス玉、骨角製狩猟・漁撈具などが出土します。

これらは13・14世紀頃に出現した以降、近代まで連続性がみられます。

このような物質文化にも、アイヌ文化のアイデンティティーが現れているといえるでしょう。

このように、擦文文化とアイヌ文化では、生活様式や墓制などに大きな差異がみられます。

しかし、両文化間には類似性、または前代からの連続性が認められるというのも事実です。

そのため、アイヌ文化は基本的には擦文文化の延長線上にあり、民族が入れ替わる現象は起きていないといってよいのではないでしょうか。

②大陸文化の影響

続いて、アイヌ文化における大陸的要素を取り挙げ、大陸文化からの影響に関して検討してみましょう。

アイヌ文化においてみられる大陸文化としては、主に以下の3点を挙げることができます。

a:方形配石荼毘墓

この墓制は、初期アイヌ文化期に存在しますが、擦文文化の墓制に由来しないものです。

日本海側では余市町大川遺跡、太平洋側では伊達市オヤコツ遺跡においてみられ、ⅰ:石を方形に配置する、ⅱ:複数の遺体を合葬する、ⅲ:埋葬施設で火葬を行う、といった3点の共通点が認められます。

また、これらの共通点のうち、ⅰに関しては渤海地方沿海の遺跡における石室墓に、ⅱに関してはウラジオストク近郊・ナデジュジンスコエ墓地における女性と幼児の合葬例に、ⅲに関しては、アムール川流域のアムール女真文化における土坑墓地点の火葬に、それぞれ由来を求めることができると考えられます。

 

b:金属板象嵌技法

この技法は、刀装具や兜の前立など、武器・武具類を中心に、木胎の表面に銀板や銅板を嵌めるもので、近世以前の日本の金工・木工作品にはみられない技術であるうえ、擦文文化にも認められません。

また、主に、厚真町オニキシベ2遺跡、伊達市オヤコツ遺跡、平取二風谷遺跡における初期アイヌ文化墓の出土品においてみられるものであるといえるでしょう。

この技法の起源に関する地域としては、主に、ⅰ:後漢時代を中心とした中国北部の匈奴・鮮卑墓、ⅱ匈奴・鮮卑・烏桓などにおける松花江やアムール河などが候補とされています。

いずれにせよ、この技法は主に大陸からの文化的影響の1つとして捉えることが可能です。

c:ワイヤー製装身具

この装身具は針金状の鉄線を素材とするアクセサリーで、出土例は主に15世紀以前の初期アイヌ文化期に限られます。

このようなワイヤーを素材とする装飾品は近世以前の日本製品や、擦文文化においても認められないため、大陸との文化的接触による影響の1つであった可能性が想定できます。

③日本列島(日本海交易)の影響

主にアイヌ文化の成立に強く関係したと考えられるのが、中世日本海交易の隆盛です。

古代末~中世初期において、特に日本海側における若狭や能登、越後などで国府や府中が内陸部からより港湾に近い場所に進出するようになる現象が確認されています。

そうした変化の要因は、そのような港湾や流通を把握することが一国行政上不可欠となったことにあるのです。

もともと古代において律令政府の支配下にあった湊町が、その権益の拡大に伴って支配者が地元の武士、または中央の大神社に属する神人へと移行していきました。

そのため、国家レベルでの支配が困難になり、一国における行政によってその実態を把握する必要が生じました。

このような背景のもと、中世における日本海交易は発展していったと考えられています。

そして今述べた日本海交易に伴い、本州と北海道とを結ぶ北方交易もまた、こうした日本海沿岸の湊町を経由する中世的物流システムに組み込まれていったといえるでしょう。

以下では、そのようなシステムの拡大について陶磁器を取り挙げ、その分布の変遷から、中世日本海交易が北海道へと及ぼした影響に関する検討を行ってみます。

14世紀前半以前の北海道において、中世陶磁器が出土する遺跡は余市に集中しています。

そこでは主に中国産青磁碗・皿(食膳具)、珠洲焼壺(貯蔵具)・擂鉢(調理具)などが出土していて、その器種組成は本州における十三湊と類似しているのです。

そのため、この時期の北方交易では主に本州十三湊-北海道余市間における交易が主流であったと考えられます。

しかし、十三湊は15世紀中葉において、その支配者である津軽安藤氏が南部氏との抗争に敗れ、北海道へと逃亡したために廃絶してしまいます。

また、それに伴って余市においても陶磁器が出土する遺跡がみられなくなり、次第に瀬田内や上ノ国、松前、箱館などの道南渡島半島へと集中するようになります。

そのため、15世紀中葉以降における北海道では、これらの地域が港湾機能を担うようになったと考えられますが、本州では十三湊の廃絶後、津軽外浜や油川湊、能代や土崎湊へと移行したと考えられます。

このように、中世陶磁器の出土遺跡分布の変遷からうかがわれるように、北海道では北方交易の発展に伴って、次第に港湾都市が変化すると共に拡大していったと考えられます。

このような変遷を辿りつつ、中近世における日本海交易の発展に伴う和人との北方交易によって、北海道は次第に日本経済圏に組み込まれていったといえるでしょう。

また、そのような対和人交易の拡大が、アイヌ文化の成立に大きな影響を及ぼしたであろうことは想像に難くないです。

以上みたように、アイヌ文化のなかには擦文文化からの連続性や北方における大陸的要素がみられ、さらに同時期の日本列島では日本海交易が発展しており、それに伴う日本経済圏の拡大によって北海道が中世的物流システムに組み込まれていく様相も確認されます

以上の点から、アイヌ文化の形成には、大きく在地の擦文文化、北方の大陸文化、または南方の日本列島文化といった3方向からの影響があったといえるでしょう。

このように、アイヌ文化の形成には、主に3つの要素が関わっているといえるのです。

北海道では、かつて擦文文化という文化が広がっていました。

この文化を基盤に、北方からの文化と南からの列島からの影響は複雑にからみあって、アイヌ文化が成立しました。

アイヌ文化には、前代の擦文文化からの連続性が認められるうえ、同時期における日本国の文化と大陸文化とが混在している様相がみられます。

そのため、アイヌ文化は在地(擦文)文化を継承しつつ同時期における南北からの文化的接触が起き、それぞれが化学変化したことによって13世紀以降の北海道島において形成されたものであると理解することができるでしょう。

アイヌ研究のこれから

このように、アイヌ文化は、北海道を舞台として、在地の文化の上に南北からの影響があって成立しました。

これまで、アイヌの人々は文字を残さなかったために、その研究は専ら考古学の立場によって進められてきました。

また、そのようなアイヌの考古学研究は、中近世において日本国家の領域外とされた北海道(蝦夷地)の歴史の復元に大きく貢献することが可能となります。

しかし、アイヌ文化の成立で確認できるように、蝦夷地の歴史とはアイヌ民族のみによって形成されたものではなく、アイヌと、その人々に干渉を行っていた和人との両方によって営まれた歴史であるといえます。

そのため、蝦夷地の歴史を構築するためには、アイヌに関する考古学的研究のみならず、同時期における和人・日本国家側の研究、すなわち中近世考古学の研究も必要となってくるでしょう。

おわりに

みなさん、いかがでしたか?

実はアイヌ文化の成立には、とても複雑な背景があったということがわかります。

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