【知っておきたいアイヌの魅力】ゴールデンカムイの世界・アイヌ文化について~アイヌの物質文化編~ - 大学生の下剋上勉強法

【知っておきたいアイヌの魅力】ゴールデンカムイの世界・アイヌ文化について~アイヌの物質文化編~

アイヌ

(※この記事でわかること)
この記事では、アイヌの物質文化について、わかりやすくまとめてあります。

はじめに

みなさんこんにちは、たいやきです。

みなさんは、アイヌの物質文化の特殊性についてご存じでしょうか。

実は、アイヌの人々が使っていたモノ資料というのは、そのモノ自体もそうなのですが、その使い方もとってもユニークなのです。

この点についておさえておけば、アイヌのさらなる魅力に気づけるはずです。

なお、この記事をまとめるにあたっては、以下の『モノから見たアイヌ文化史』を参考にしています。

大変読みやすく、わかりやすいので、ぜひ、こちらの本自体も、読んで見てください。

アイヌ文化にあって和人社会にないモノ

アイヌの物質文化には、主に、

①アイヌ文化特有のモノ

②アイヌの人々が好んだモノ

③本来とは異なる使い方をされたモノ

の3種類が存在しています。

以下では、この3点に関して触れ、それぞれ概観を行ってみます。

①ネックレスとピアス

倭国域では奈良時代以降、装身具は姿を消しますが、北海道では続縄文時代以降アイヌ文化期に至るまで、石やコハク、ガラスと変化しながらも玉類は存在し続けます。

特に、アイヌの装身具にはネックレスであるタマサイと、ピアスであるニンカリがみられ、それらに玉類が利用されていたと考えられます。

アイヌ文化期においては、15世紀代以降玉類がみられるようになり、当初はトンボ玉が多く出土します。

また、この時期ではサメの歯やワイヤー製装身具と組み合った状態で出土する例が多く、大陸的・北方的色彩が濃厚である点が特徴です。

16・17世紀代ではガラス玉が多くみられますが、そのなかでも透明性のある青玉の比率が高いため、この時期ではガラス玉=青玉といった図式が成立していたものとみられます。

これらの点から、当初のアイヌの人々が使用したトンボ玉やガラス玉は、おそらくサハリン経由の北回りで大陸から渡ってきたものであったと考えられるでしょう。

しかし、18世紀では、透明性を欠く空色がかった中玉が増加するようになり、19世紀には黒色系の大玉が主流となります。

このような、前代とは色彩が異なった玉類からは、この時期以降、江戸や大阪、境などで蝦夷地向けに大きく装飾性豊かなガラス玉の生産が行われるようになったことを示しているといえます。

②銛頭

アイヌの人々は、銛を利用してクジラ・アシカ・オットセイなどの海獣類を捕獲していました。

そのため、銛を構成する部品のなかで特に出土する銛頭に着目することで、海獣狩猟を主な生業としていたアイヌの人々の特色について検討を行うことが可能です。

銛頭には鯨骨や鹿角製のものがみられ、先端に金属製の鏃を装着する場合もあります。

この時期の金属製鏃は道東より道南・道央日本海沿岸で多く出土しますが、この点は、立地による和人との接触機会の多寡に関係している可能性があります。

また、銛頭の中央部には紐を通すための孔か、紐を結びつけるための溝がみられ、銛頭の後端部には柄をつなぐ中柄を差し込むための孔または溝がみられます。

このような銛頭に関して、14・15世紀においては本州北端の下北半島と道南・道央日本海側では非常に類似性が高いのに対し、17世紀では下北半島において独自性・地域性などが現れるようになるといった変遷がみられます。

このような銛頭の地域性は和人からの影響の度合いに関係している可能性が高く、その要素としては、狩猟方法やその対象物、文化的過程、金属の入手などが挙げられます。

③毒矢

また、アイヌの人々は鏃にトリカブトを塗った毒矢を使用していました。

そのため、当時の人々はアイヌ=毒矢といったイメージを抱いていたことが、文献史料の記録から窺うことができるのです。

また、アイヌの人々は使用する弓は短弓(全長1m)であり、丸木弓であったため、主に近距離用のものであったと考えられます。

おそらく、アイヌの人々はこれらの毒矢を、代表的な生業である狩猟以外にも、戦いにおける武器として利用していたと考えることができるでしょう。

アイヌの人々が大好きなモノ

①切れなくてもいい刀

アイヌの人々にとっての刀は単なる武器ではなく威信材でもあり、宗教儀礼にも用いられました。

アイヌの民具にみられる刀は、切ることができない鈍刀や木刀、真鍮刀といった武器としての機能を持たない刀がほとんどで、それらは「ツクナイ」として争い・諍いなどが起きた場合の賠償品や担保として、または副葬品としても使用されていました。

また、アイヌの刀は、基本的に古代日本の太刀様式を模したものです。

しかし、厳物造太刀などは彼らが自製できなかったため、本州から渡ってきたものを「イコロ」として扱っていました。

一方、「エムシ」というものもあり、「エムシ」とは和人から入手した刀身に、彫刻を施し樹皮を巻きつけた柄と鞘を装着し、金・銀の金具を取り付けて盛大に取り付けた太刀のこと。

このように、蝦夷太刀にはアイヌが自製できないイコロ型と、彼らの手によるエムシ型といった2種類が存在しているのです。

蝦夷太刀は、刀身は鎬がない平造りの湾刀であり、刀身の幅は日本刀よりも広い(3cm以上)です。

平造・角棟の湾刀である蝦夷刀と、樹皮巻の鞘や元々は別の金具を組み合わせた拵などを特徴とする蝦夷拵は13世紀代に出現します。

加えて、蝦夷太刀には腰に吊すための足金物が付いていないことから、エムシアッと呼ばれる布製の刀掛け帯が蝦夷太刀・蝦夷拵の成立当初から使われていた可能性が高いです。

また、14世紀代の蝦夷拵は装飾性が低く、日本刀も多く見られることから、当初の刀はアイヌの人々にとって武器であった可能性が高いです。

しかし、16世紀以降は、加飾化が進み、儀礼用の切れない刀へと変化するうえ、日本刀の出土数も減少しています。

おそらく、最終的には寛文9(1669)年のシャクシャインの戦いの戦後処理として行われたと推測される武装解除により、アイヌの人々は武器としての刀を完全に失った可能性が高いです。

②タバコ

刀と並んで、アイヌの人々が好んで使用したとみられるのがタバコです。

喫煙の習慣は17世紀代初頭には本州北端に到達したようであり、次第に北海道島へと普及・盛行したとみられます。

その様相を示すのがアイヌ墓へのキセルの副葬割合であり、17世紀後半以降には40%前後と高い割合を示しています。

タバコはキセルとパイプから構成されますが、そのなかでも金属製のものは北方地域に広く分布し、木製品は北海道内、石製は道北や道東、サハリンや沿海州、千島などに多くみられるといった多様性を示しています。

また、タバコは酒と共に、ウイマムやオムシャの際に和人からアイヌへと下賜されることが多かったようで、当時の蝦夷地場所における主要な対アイヌ交易品であったとみられます。

そのため、これらは近世和人社会とアイヌとの関係性を色濃く反映しているものであるといえるでしょう。

本来とは違う使い方をされたもの

アイヌの人々は、金・銀・銅など貴金属から作られた鏡や武器、武具やその部品などを和人との交易によって入手していたことが、これまでの発掘調査から明らかになっています。

しかし、それらの出土品の様相に目を向けると、当時のアイヌの人々は、それらをそのものの機能に関係なく本来とは異なる用途に使っていた可能性が想定される場合があります。

①兜の前立「鍬形」

北海道内から出土する「鍬形」の多くは、和人との交易で入手した鉄・銀・真鍮等の金属板を加工することで装飾された状態で出土します。

これらはおそらくアイヌの人々が和人をとして兜を入手した後、前立を外して独自に様式化させたものであると考えられ、主に宝器として利用されていたのではないかと推測されます。

②鏡・金銭 

アイヌの人々は和人との交易を通して鏡や金銭を入手していました。

しかし、アイヌの人々は物々交換の文化を有していたため、金銭を貨幣として利用することはなかったとみられます。

この点に関して、アイヌの民具では銭貨を連ねてタマサイとして利用する例がみられるため、出土する鏡や金銭に関しても、そのように利用されていた可能性があります。

③米国製金ボタン

これらはアイヌの貝塚から多く出土しますが、これまでの出土品のなかにこのような金ボタンを利用したタマサイが存在するため、当時はおそらくタマサイや蝦夷刀の装飾に転用されていたとみられます。

おわりに

みなさん、いかがでしたか?

アイヌの物質文化には、①アイヌ文化にあって和人社会にないモノ、②アイヌの人々が大好きなモノ、③本来とは違い使い方をされたモノ、などの3種類がみられます。

特に、①ではネックレスや銛、毒矢などがあり、これらに着目することで、アイヌ文化の特色について明らかにすることができます。

また、②では、切れない刀やタバコなどがありますが、これらの検討を行うことで、当時の近世和人社会とアイヌとの関係性について迫ることが可能です。

そして③では、主に、鍬形や鏡・金銭、ボタンなどがみられ、それら貴金属製の武器や武具、部品などが、アイヌの人々によって本来とは異なる用途に使われていた様相が明らかになっています。

これらの点から、アイヌの物質文化に関する研究は、以下に述べる2点において大きな意義があるといえるでしょう。

すなわち、当時の日本国から蝦夷地への影響や、和人の影響によって変容させた文化や、あるいはそれでも頑なに貫いたアイヌ独特の価値観などにせまることができる点。

そして、そのような検討は、アイヌと和人の双方によって営まれてきた蝦夷地の歴史の解明を可能にするという点です。

また、この2点に関しては、主に和人視点によって記された文献史料のみでは明らかにすることが困難であり、考古学的研究の貢献が大きく求められるといえるのです。

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