【歴史好き必見の東北古代史の一大事件を紹介!!】元慶の乱と「逃入奥地」について - 大学生の下剋上勉強法

【歴史好き必見の東北古代史の一大事件を紹介!!】元慶の乱と「逃入奥地」について

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(※この記事でわかること)
この記事では、東北古代史における元慶の乱と、文献史料に残る「逃入奥地」記事について、まとめています。

はじめに

みなさんこんにちは、たいやきです。

突然ですが、みなさんは元慶の乱をご存じですか?

実はこの元慶の乱というのは東北古代史における一大トピックなんですね。

これを知っておくと東北古代史のさらなる魅力を知る事ができるはず!

興味がある方は、ぜひ読んでみてください。

元慶の乱って?

ここで、まずは元慶の乱についてまとめてみましょう。

元慶の乱とは、元慶2年(878)、秋田城司の暴政を原因として勃発した反乱のことです。

主体となったのは秋田城下の人々であり、三十八年戦争以降蝦夷最大の反乱であるとされます(熊谷2016)。

この反乱の一連の様相に関しては『日本三代実録』より把握することができます。

特に、この元慶の乱で興味深いのは、そのなかで元慶三年三月二日条には「三分之一、逃入奥地」という記載がみられます。

「逃入奥地」について

実はこの記事は、苛政を逃れて出羽国内から多くの人が「奥地」へと逃亡したことを伝える記事なんですね。

従来、この元慶の乱における「逃入奥地」記事に関しては、特に「奥地」が指す地域を巡って様々な指摘がなされてきました。

例としては、津軽地方だとする指摘(熊田2003)、あるいは津軽に限定するのは困難であり、津軽地方が含まれるのは確実だが秋田城以北の地域とする見解(鐘江2003・2006)などがみられます。

上記の指摘は主に文献史学の側よりなされたものですが、今回の記事では「逃入奥地」に関する考古学的検討についてもみていきます。

特に、既に候補として指摘されている北東北日本海側に着目し、当該地域における土器様相や集落数の推移・住居構造の変化などの多角的な考古学的検討をもとに「奥地」が指す地域について考察を試みてみましょう。

また、実は「逃入奥地」に関する移住には否定的な見解も提示されているんですね「熊谷2016)。

この点に関して、今回の記事では移住の有無に関しても考古学的観点から考察してみます。

古代北東北地域における土師器

まず、古代北東北地域における土器様相についてみていきましょう。

なかでもまずは土師器について概観していきます。

この点に関しては三浦圭介氏による検討があります。(三浦2007)。

三浦氏は、当該時期・地域における土師器に関して、4段階の変化を想定しています。

①7世紀より土師器の出土例がみられるが、初期段階では7世紀から8世紀末まで、東北南部地方の栗囲式や国分寺下層式の影響を強く受けた「古代前期東北北部型土師器」が出土する。特徴としては、器面の調整にミガキ手法が取り入れられている点があげられる。

②9世紀前葉になると、それまで出羽・陸奥両国で使用されていたロクロが北東北地域に導入され、坏類のほとんどや中・小の甕の一部に用いられるようになる。また、製作技法に関しては、ロクロを成形した後に内面黒色やミガキなどの処理を施す、といった特徴がみられる。

③9世紀後半からは製作技法において大きな変化がみられ、ロクロを成形した後、調整や処理をおこなわない赤焼土器が主流になりはじめる。

④9世紀末から10世紀前葉にかけては、赤焼土器の器種のなかでも皿が多用されるようになる。

上記のように、三浦によって土師器に関する4段階の変遷が指摘されていますが、ここでは、元慶の乱が生じた③の9世紀後半には赤焼土器が主流になる、という点に注目しておきたいです。

特に、以前の段階ではロクロを成形した後に内面黒色やミガキなどの処理が施されていたのに対し、この時期からおこなわれなくなるというのは、製作技法の大きな変化であるといえるでしょう。

赤焼土器について

以下では、上記の三浦の指摘をふまえ、9世紀後半より主流となる赤焼土器について詳しくみていきます。

赤焼土器に関しては、伊藤博幸氏が検討をおこなっています(伊藤2007)。

伊藤氏によると、赤焼土器は8世紀中葉前後より、秋田城を中心としてみられるようになった土器なんですね(図1)。

図1 秋田城のあかやき土器(伊藤2007)

その焼成については器面に黒班などが認められないことから、比較的低温の酸化炎焼成によるものであるとされます。

なお、この土器については、他にもロクロ土器、赤褐色土器など複数の呼称があります(坂井2008)。

器種としては蓋や皿、坏や甕、鍋などが挙げられます。

伊藤氏は、これらの器種は元来国家側の要請によって成立した型式であり、型式や製作技法に着目すると、その系譜は北陸地方に求めることができると指摘しています。

また、9世紀頃からは秋田城周辺集落や米代川流域への拡大・展開がみられ、三浦氏が指摘したように9世紀後半からは津軽地方の集落でも出現するようになります。

 伊藤氏は、この赤焼土器の器種構成に注目し、一般的な集落では豊富な器種のうちのいくつかを欠いた状態で出土するが、城柵などの官衙遺跡においては器種組成がほぼ完全な状態で出土するという差異を見いだしています。

そして、この差異から、器種の組成率が高いほど国家側が強く関与していた可能性があると指摘しているんですね。

赤焼土器の分布

①赤焼土器と内黒土器の関係性

続いて、赤焼土器の分布という点にも注目すしてみましょう。

まず、八木光則氏による検討(八木2011)をみていきます。

八木氏は、古代北東北地域の土器様相の比較から、当該地域における東西間、または南北間という2つの移住の可能性に関して検討しています。

まず、東西間における移住については、主に太平洋側の馬淵川流域などでは内黒土器の割合が高く、対する津軽地域では赤焼土器の割合が高いと指摘し、土器文化が大きく異なっていることから、東側から西側への移住の可能性は低いと考えています。

南北間における移住に関しては、特に津軽地域と米代川流域では共に赤焼土器の割合が高い点を指摘し、土器文化における類似性がみられるとしましたた。

しかし、米代川流域における人口増加は津軽地域に遅れて10世紀から顕著になるため、人口の少ない地域から津軽への大量移住は不自然であり、南から北への移住の可能性も低いと述べています。

そのため、「逃入奥地」に関しては、元慶の乱によって多少の人の移動があったにせよ、津軽の人口を大きく増加させることはなく、主に地域内での人口増加であった可能性が高いと述べているんですね。

八木氏の検討のうち、東西間における移住に関しては、確かに土器様相が大きく異なっているため、移住の可能性が低いという指摘は肯定できます。

しかし、南北間における移住に関して、人口の少ない地域からの大量移住が不自然という指摘は、移住を否定するには根拠が不十分であり、疑問が残りますね。

②赤焼土器の地域性

上記のように、八木氏は土器様相からは移住はみえてこないと結論づけていますが、以下でみるように、斎藤淳氏も赤焼土器坏を対象とした検討において、同様の見解を述べています(斎藤2016a・b)。

斎藤氏は、まず、八木氏と同様に9世紀後半から多くみられるようになる赤焼土器坏が主に日本海側に偏って出土する点を指摘しています(図2)。

図2 赤焼土器坏の比率分布(9世紀後半~10世紀前半)(斎藤2016a)

また、特に赤焼土器坏の器高に関して、地域ごとの法量平均を算出しています(図3)。

図3 赤焼土器坏法量平均による器高指数分布(9世紀後半~10世紀前半)(斎藤2016a)

図3の分布から、赤焼土器の器高は北高南低の傾向がみられるということがわかりますね。

さらに、斎藤はこれらの法量平均をもとにして、各地域間の法量平均類似度を計測しています(図4)。結果、この図からは主に「秋田」、「津軽」、「南部」、「北海道」、「浪岡」の5グループに分類することができ、赤焼土器坏には地域性がみられるという点を指摘しました。

図4 赤焼土器坏法量平均による主成分得点グラフ(斎藤2016a)

そして、このように地域性がみられることから、基本的には各地域で在地の赤焼土器が製作されていたと考えています。

すなわち、人の移動があったとしても統計的には在地性に埋没してしまう程度であった可能性が高く、土器様相からは移住は読み取れないとしました。

③赤焼土器浪岡グループの特異性

上記のように、八木・斎藤の両氏の検討によって、土器様相からは移住の可能性は低いという指摘がなされています。

しかし、ここで注目されるのは、斎藤の検討で見いだされた浪岡グループです。

斎藤氏は、上記の検討によって地域性がみられると指摘しつつ、他の4グループに比して浪岡グループには分布(図2)や器高法量平均(図3)の観点から特異性がみられるため、このグループの土器製作者に関しては他地域からの影響、例としてある程度の集団の往来を想定する必要があると述べました。

この特異性に関しては後述します。

なお、斎藤はこのグループを浪岡グループと呼称したが、浪岡地域のみではなく、隣接する五所川原地域からも多く出土しているため、当該グループが出土する地域としては浪岡地域に加えて五所川原地域も該当するんですね(斎藤2016a・b)。

ここで、斎藤氏が見いだした地域性と、上記の伊藤氏が指摘した赤焼土器の展開を関連させて考えると、まず、8世紀代の秋田城において赤焼土器が成立し、続く9世紀頃には秋田城周辺集落や米代川流域に展開していき(=斎藤の述べる秋田グループ)、9世紀後半には津軽地域に出現するようになった(=斎藤の述べる津軽・浪岡グループ)という流れがあったと推測できます。

ただし、そのような伝播過程のなかでも、9世紀後半よりみられる浪岡グループに関しては他地域からの何らかの強い影響を想定する必要があるでしょう。

古代津軽地域における集落遺跡の変化

①集落遺跡数の推移

上記のように、土器様相の検討からは移住の可能性が低いという指摘がみられました。

しかし、斎藤淳の検討によって、9世紀後半においては、特に浪岡地域における赤焼土器坏に関して特異性がみられ、他地域からの影響を考慮する必要があるという点が指摘されているんですね。

以下では、そのような土器様相に関する検討結果をふまえつつ、当該時期・地域における集落に関する考古学的検討についてもみていきます。

まずは、三浦圭介氏の論考を取り挙げてみましょう(三浦2007)。

三浦氏は、7世紀中葉~12世紀後葉までの津軽地域における古代遺跡数の推移について検討しています。

その結果、9世紀後半から急激に集落が増加する点を明らかにしています(図5)。

図5 津軽地域における古代移籍数の推移(三浦2007を基に一部改変して作成)

元慶の乱と同時期に、津軽地域において集落数が増加している点は注目されますね。

また、三浦氏は、その激増現象は陸奥湾沿岸地域(青森平野)や岩木山水系中流域(弘前市・五所川原市・旧浪岡市)、浅瀬石川・平川流域(平川市)に集中し、岩木川下流域や日本海沿岸部には比較的少ないと指摘しました。

②増加する集落の構造

加えて、三浦氏は9世紀後半より津軽地域において増加する集落が有する構造に関しても検討しているます。

その結果、新たに、竪穴住居に掘立柱建物が連結する構造や、外周溝が付随する構造が出現するという変化を明らかにしました。

また、その構造の起源と変遷についても検討しており、構造自体の起源は8世紀前半の北関東に出現した集落に求めることができるとしています。

さらに、その時期以降の変遷に関しては8世紀中~9世紀前半においては宮城県北域でみられ、9世紀前~中葉では更に北上して雄物川中・上流域でも出現するようになるという点を明らかにしています。

そして、この変遷をもとに、集落が増加する9世紀後半から10世紀前半にかけての津軽地方においてその集落を営んだのは、前段階の時期において展開していた雄物川中・上流域からの移住者であった可能性を指摘しました。

また、雄物川流域は秋田城下に属しており、この移住は『日本三代実録』元慶三年三月二日条にみられる、「逃入奥地」の記載を裏づけるものであると述べました。

加えて、津軽地域と秋田県域における米代川流域では古代を通して類似した住居構造であるという指摘もおこなっているんですね。

古代津軽地域における集落遺跡の地域性

上記のような三浦の検討の他にも、岩井浩人氏によって当該地域・時期における集落に関する考古学的検討がおこなわれています(岩井2018)。

岩井氏は、津軽地域を岩木山北麓、岩木川上流域左岸、津軽平野東部、津軽平野南部、青森平野の5地域に分類し、各地域における古代の集落遺跡の変化量から、その地域性について検討しています。

その結果、主に9世紀後葉に突出した増加を示した後、反動のように10世紀中葉以降は減少していく津軽平野東部・青森平野(以降、A地域とする)と、9世紀後葉における集落の増加以降、基本的に増加と減少を繰り返しながら変遷する岩木川上流域左岸・津軽平野南部(以降、B地域とする)という2つの地域性がみられるとしています(図6・7)。

図6 津軽地域における遺跡変化量の推移(岩井2018)
図7 津軽平野東部~青森平野(A地域)・岩木川上流域左岸~津軽地域南部(B地域)における遺跡変化量の推移(合算)(岩井2018)

また、岩井氏は、A地域は新しく外周溝が巡る住居構造が多く出現する革新的な地域であり、B地域はそのような新構造の受容が制限されている保守的な地域である、という差異がみられると指摘しました。

岩井氏の論考において注目されるのは、A・B地域ともに9世紀後葉より集落が増加するが、なかでもA地域では9世紀後半における集落の増加量が大きく、さらにはそのA地域では外周溝が付随するという新しい住居構造が多くみられると指摘している点です。

また、このような革新的な様相を示しているとされたA地域には、上記における斎藤の検討によって見いだされた浪岡グループが出土する地域が含まれている点も重要ですね。

考古学的検討からみた「逃入奥地」

 これまで取り挙げてきた、古代北東北地域における土器様相・集落数の推移・住居構造の変化に関する考古学的検討のなかでも、元慶の乱が生じた9世紀後半を中心に着目すると、以下のような変化が指摘できます。

①土器様相

それまでの土師器の製作技法が大きく変化し、無調整の赤焼土器が主体となる。赤焼土器の変遷に関しては、8世紀代の秋田城において成立した後、9世紀頃には秋田城周辺集落や米代川流域に展開し、9世紀後半には津軽地域に出現するようになるという流れが想定される。加えて、9世紀後半より出現する津軽地域の赤焼土器(坏)には地域性がみられ、なかでも浪岡グループに関しては他地域からの何らかの影響を想定する必要がある。

②集落数の推移・住居構造の変化

津軽地域において、9世紀後半より集落数が急激に増加する現象が認められた。また、そのなかでも津軽平野東部・青森平野においては比較的集落の増加量が大きかった。さらには、当該地域には外周溝がみられるようになるという新しい住居構造が確認され、その直接的な故地は雄物川中・上流域である可能性が指摘されている。

③考古学的検討からみた移住の有無と「奥地」の候補地

上記の検討より、元慶の乱が勃発した9世紀後半には特に津軽地域において土器様相が大きく変化するとともに、集落数の増加、新しい住居構造の出現といった変化がみられました。

これらを総体的にみると、上記の変化は単に他地域の文化を受容した結果生じたものとは理解しがたく、当該時期における津軽地域への移住があった可能性を想定することができると考えられます。

また、津軽地域のなかでも土器・集落の様相において大きな変化がみられたのは、浪岡地域周辺、津軽平野東部・青森平野であり、これらの地域への移住があった可能性が高いと考えられます。

津軽地域のなかでも他地域(B地域)で集落の増加は確認されていますが、比較的保守的な様相がみられるという岩井氏の指摘をふまえると、基本的には何らかの背景のもとで生じた在地間の人々の移動によるものである可能性が高いでしょう。

特に、B地域は、斎藤淳が見いだした、在地性が認められる津軽グループの出土地域であり、この点を補強します。

「奥地」移住者の故地について

先述したように、多角的な考古学的検討から、元慶の乱「逃入奥地」に関しては、津軽地域のなかでも浪岡、またはその周辺地域への移住があった可能性が想定されました。

この点に関して、さらに、その移住者の故地についても検討しておく必要がありますね。

ここで、再び岩井浩人氏の検討(岩井2018)を参考にします。

岩井氏は、集落に加えて土器に関しても検討をおこなっており、A地域では器種の構成が多様だがB地域では器種が固定されているため、全体的に前者では革新的な様相が示されているのに対し、後者では保守的な様相がみられるという差異が存在していると指摘しています(図8・9)。

図8 A地域(津軽平野東部(野尻遺跡群))における土器変遷(岩井2018)
図9 B地域(岩木川上流域左岸~津軽平野南部)における土器変遷(岩井2018)

ここで注目したいのは、A地域において赤焼土器の器種が多様であるという点です。

これは言い換えると赤焼土器の組成率が高いということであり、既に取り挙げた伊藤博幸の指摘にしたがうと、この点は国家側からの強い影響、または干渉を示していると考えられます。

すなわち、移住者の故地を考察するにあたって、まずは大まかな範囲として、赤焼土器の文化圏内でありながらも当時国家側の影響を比較的強く受けていたと推定される秋田城周辺の地域を挙げることができます。

次に、図2・3をもとに、未だ詳細には触れていなかった、斎藤氏が指摘した浪岡グループの特異性に注目してみましょう。

改めて図2をみると、赤焼土器坏の比率分布に関して、浪岡グループに含まれる五所川原地域では95.2%と周囲より高い数値を示しています。

また、図3より器高分布に関しては五所川原地域で40.7%、野尻遺跡(浪岡地域)では40.8%と周囲より比較的低い点が確認できます。

ここで注目されるのは、北東北地域のなかでも、比率分布・器高分布において浪岡グループと類似しているのは秋田城周辺の北部地域であるという点です。

以上の点をふまえつつ、伊藤の検討による赤焼土器の変遷における時期と関連させると、移住者の故地として考えられるのは、津軽地域で出現するようになる前段階で展開していた米代川流域が考えられます。

この地域は図10を参照すると秋田城下でもあるため、時期・地域的に「逃入奥地」記事の内容と一致しています。

図10 元慶の乱関係地図(熊谷2016)

つまり、

①8世紀代の秋田城において赤焼土器が成立し、周辺集落および米代川流域へと展開した(=斎藤の述べる秋田グループ)。

続いて、②9世紀後半における「逃入奥地」によって米代川流域から浪岡を中心とするA地域への移住がおこなわれ、集落が増加するとともに浪岡グループが作成されるようになった、

という流れを想定することが可能です。

以上のように、主に赤焼土器の検討を参考とすると、浪岡地域周辺へと移住した人々の故地は米代川流域であった可能性が高いといえます。

しかし、上記で取り挙げたように、三浦圭介は住居構造の検討より雄物川中・上流域から津軽地域への移住を想定しています(三浦2008)。

図10で確認できますように、雄物川中・上流域も秋田城下に含まれるため、これらの地域を移住者の故地の候補地として捉えても「逃入奥地」記事と矛盾するわけではないです。

したがって、これらの点をふまえ、筆者は、9世紀後半において浪岡地域周辺への移住があった可能性は高いですが、その移住者の故地に関しては秋田城下のなかでも米代川流域、および雄物川中・上流域を候補として考えておきます。

おわりに

みなさん、いかがでしたか?

今回は、元慶の乱と「逃入奥地」に関して、土器様相や集落数の推移・住居構造の変化などに関する多角的な考古学的検討を取り挙げ、移住の有無や「奥地」が指す地域、「奥地」へと移住した人々の故地について考察を試みてみました。

結果、元慶の乱が勃発する9世紀後半には、津軽地域のなかでも浪岡地域周辺において土器や集落数、住居構造などの様々な物質文化の変化が認められました。

また、この点から、当該地域が「奥地」であった可能性とともに、移住自体が実際に生じていた可能性が想定されました。

さらに、当該地域にみられた土器や住居構造の系譜に関する検討をもとに移住者の故地について考察した結果、その候補地としては秋田城下のなかでも米代川流域や雄物川中・上流域が考えられました。

今後は、文献史料との照合が求められると考えられます。

特に、『日本三代実録』には元慶の乱の過程について詳細に記録されており、これらの検討によって蝦夷社会の様相および蝦夷の動向を明らかにすることができると考えられます。

また、それらをふまえたうえで、元慶の乱周辺の時期の北東北日本海側における考古学的成果と文献史料の内容を比較し、一致する部分、不一致である部分について具体的に検討していくことが必要であると考えられます。

参考文献

・伊藤博幸 2007「陸奥・出羽の須恵系土器・あかやき土器小論―王朝国家期における二系統の土器型式―」『古代蝦夷からアイヌへ』吉川弘文館.pp.287-307

・岩井浩人 2018「古代津軽地域における集落遺跡の諸相」『古代史シンポジウムー古代津軽地域の様相を探るー資料集』弘前市教育委員会.pp.11-22

・鐘江宏之 2003「九世紀の津軽エミシと逃亡民」『弘前大学国史研究』114.弘前大学国史研究会.pp.18-29

            2006「Ⅳ 元慶の乱と鹿角・津軽」『十和田湖が語る古代北奥の謎』校倉書房.pp.99-123

・熊谷公男 2016「七 元慶の乱と北方蝦夷集団」『東北の古代史4 三十八年戦争と蝦夷政策の転換』吉川弘文館.pp.228-277

・熊田亮介 2003『古代国家と東北』吉川弘文館

・斎藤淳 2016a「北奥「蝦夷」集落の動態」『月刊考古学ジャーナル』688.ニュー・サイエンス社.pp.5-9

2016b「土器からみた地域間交流―秋田・津軽・北海道―」『考古学リーダー25 北方世界と秋田城』六一書房.pp.155-190

・坂井秀弥 2008『古代地域社会の考古学』同成社

・三浦圭介 2007「津軽地方における古代社会の変質とその様相―特に九世紀後半から十世紀前半にかけての変質についてー」『古代蝦夷からアイヌへ』吉川弘文館.pp.190-218

・八木光則 2011「古代北日本における移住・移民」『海峡と古代蝦夷』高志書院.pp.215-235

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