【元考古学専門修士卒が教える】墓石から読み取れるヒト・モノ・情報の交流について - 大学生の下剋上勉強法

【元考古学専門修士卒が教える】墓石から読み取れるヒト・モノ・情報の交流について

中近世考古学

(※この記事でわかること)
この記事では、墓石から読み取れるヒト・モノ・情報の交流について、簡単にまとめています。

はじめに

みなさんこんにちは、たいやきです。

今回は、お墓を歴史資料として捉えたとき、そこからみえてくるヒト・モノ・情報の交流についてみていきたいと思います。

なお、今回参考にしたのは、下記の「墓石が語る江戸時代」です。

墓石にみる多様な交流

墓石の調査・分析を行った際には、①ヒト・②モノ・③情報の動きなども明らかにすることが可能です。

①ヒトの動きに関しては、墓石に刻まれた被供養者の変動から地域の隆盛に関する検討を行うことができるうえ、出身地などからは、その人物の生前の移動などを明らかにすることが可能となります。

②モノの動きに関しては、墓石の石材を中心に、その産出地、または墓石の製作地、そして最終的に配置されている所在地といった流れに関する検討を行うことが可能です。

しかし、石材の産出地に関しては、石材から比較的容易に特定可能であるのに対し、墓石の製作地に関しては、製作遺跡が不明であるうえ、石工も少数であるため、この点を明らかにすることは困難です。

そのため、モノの動きについては、主に石材の産出地と消費地(墓地)との間における移動に関する検討に限られます。

また、③の情報の動きに関してだが、情報はヒトやモノを介して移動するため、その様相に関する検討を行うことは困難であると言わざるを得ません。

しかし、分析方法が皆無というわけではなく、墓石の型式学的研究などを通して情報伝播に関する検討を行うことが可能です。

以下では、①~③の動きに関して、これまでに調査を行った松前三湊(松前・江差・箱館)や越前三湊(三国・敦賀・小浜)などの分析結果を用いて検討してみましょう。

墓石に現れたヒトの動き

近世における北海道南部では、箱館・江差・松前が「松前三湊」とよばれ、湊町として栄えました。

この3地域における墓石の調査を行ったところ、箱館では1659年のものが最古であり、1820年代以降増加し始め、江差では1671年のものが最古であり、18世紀代移行緩やかに増加、松前では1620年代から建てられ始め、17世紀代から1840年まで増加するが、1850年代以降は減少の一途を辿るといった結果が得られています。

このような様相からは松前三湊のうち、城下町である松前がいちはやく湊町としての地位を確立させ、18世紀代以降において箱館と江差が湊町として賑わい出すといった変遷を読み取ることができます。

また、1850年代以降の松前における減少は、1860年の箱館開港による人口流出が影響していると考えられます。

また、松前における墓石には出身地が刻まれているものも少なくなく、この点に関する検討も重要です。

特に、松前の墓石に刻まれている出身地としては、下北や津軽、秋田、庄内、越前、佐渡などが多く、主に日本海沿岸の地域であるといった傾向を指摘することができます。

他には瀬戸内海塩飽初頭などもみられ、これらは船乗りや船大工の輩出地であった点が関係している可能性があります。

さらに、このような松前三湊における墓石は、近世における蝦夷地の歴史の解明に大きく影響しています。

すなわち、江戸時代の北海道は、主に道南の松前や箱館を中心とする和人地と、松前藩や幕府の直接的な支配が及ばない蝦夷地とに大別されるが、アイヌの人々の墓標には墓石が使われなかったため、蝦夷地における江戸時代の墓石は、すべて和人のものということになります。

つまり、松前三湊にみられるような蝦夷地における墓石は、江戸時代における和人の進出、ひいては蝦夷地の内国化の過程を物語っているといえるでしょう。

少し、その様相について触れると、主に西蝦夷地から東蝦夷地へと墓石が増加するといった点や、時代が下るにつれて各地増加する傾向がみられるなどの点を指摘することができます。

また、それらの変遷と和人の蝦夷地に対する干渉の歴史とを照合させると、西蝦夷地は主に漁場の開発といった経済的理由によって、東蝦夷地は主に18世紀末以降の対ロシア政策に伴う警備といった政治的理由によって、それぞれ和人の進出、または内国化が進められていった可能性が考えられます。

続いて、越前三湊における分析結果についてみていきます。

越前三湊は三国・敦賀・小浜から構成され、中世以降湊町として栄えました。

これらの地域における墓石を検討すると、まず、三国では1491年のものが最古であり、17世紀初頭以降は増加する現象が確認されます。

また、敦賀では1438年のものが最古であり、1580年代以降増加するが、1780年代に減少するといった点がみられます。

さらに、小浜では1413年のものが最古であり、17世紀初頭以降に増加するが1760年代以降は減少していきます。

また、特に18世紀前半では小浜で人口が増加するのに対して、三国・敦賀では減少するといった差異もみられます。

これらの結果から、まず、越前三湊はいずれも15世紀代から墓石の造立が見られるといった点を指摘することができます。

また、他にも、16世紀後半の敦賀において人口が著しく増え始め、三国と小浜ではそれよりやや遅れて17世紀前半から増え始めるといった人口増加の時期差も確認することができます。

また、18世紀前半における小浜と三国・敦賀の間で人口増加・減少といった差異がみられるといった点も指摘したが、この背景には、主に西廻り航路の確立などが関係していると考えられます。

越前三湊が属する若狭は、もともと越中以北から日本海を南下する船のターミナルとされ、若狭で陸揚げされたものを陸路や河川交通によって畿内へと運ぶ役割を担っていました。

しかし、西廻り航路の確立後は陸揚げが不要となり、若狭はターミナルから一寄港地へと変化したと考えられます。

しかし、そのような越前三湊のなかでも小浜は古代よる陸揚げ地として活躍していたため、航路が確立した後も寄港する船が多かったのではないかと推測されます。

このように、湊町における墓石の調査・分析を通してヒトの動きを明らかにすることで、湊町の隆盛の変遷や出身地の傾向などを明らかにすることができます。

墓石に現れたモノの動き

モノの動きに関しては、主に墓石に使われている石材から検討を行うことが可能です。

松前における墓石を取り挙げると、17世紀前半までは福井県足羽山産の笏谷石が多く、地元産の火山礫凝灰岩は少ないが、17世紀末~18世紀前半にかけて瀬戸内産の花崗岩が増加し、笏谷石が減少するといった流れがみられ、18世紀後半ではそのまま花崗岩が主流となります。

また、越前三湊の様相を検討すると、まず、三国では一貫して笏谷石が98%であるといった点がみられますが、これはこの地がかつて笏谷石の積み出し港であったことが関係していると考えられます。

敦賀に関しては、15世紀後半~16世紀では敦賀湾東岸産の阿蘇石が主流であったのが1530年代には笏谷石となり、17世紀代では花崗岩、1710年代では敦賀産の櫛川石となります。

また、小浜では1580年以前では福井産の日引石が主流であり、16世紀後半には笏谷石、そして17世紀前半以降には花崗岩へといった変遷がみられます。

これらの様相から、まずは松前・越前三湊のいずれも、地元産の石材や福井産の笏谷石、または瀬戸内産の花崗岩などを利用していたといった点を指摘することができます。

また、この点に関して、松前・越前三湊の分析結果から全体的な石材流通の様相の復元を試みると、まずは、16世紀後半を境として地元産の石材利用から笏谷石の多用へといった変化が見られる点を指摘することができます。

この背景には日本海交易の整備などが関係しているとおもわれます。

また、続く17世紀前半では北日本への笏谷石の移出が日本海交易によって行われたようであり、1670年代以降では日本海側において瀬戸内産の花崗岩が流通し、18世紀以降は地元生産の開始がみられるようになります。

これらの流れから、墓石の石材に関しては、総じて15・16世紀では地産地消が盛んに行われ、17~18世紀前半においては広域流通によって運ばれていたが、18世紀後半~19世紀においては再び地産地消のスタイルへと戻ったというような変遷がみられるといえます。

また、このように墓石の石材に着目することで、当時の石材利用における一定の傾向や、それに伴う広域流通の様相を明らかにすることが可能です。

墓石に現れた情報の動き

情報の動きについては、特に墓石の型式などから当時の流通に関する検討を行うことが可能です。

ここでは、例として一石位牌形を取り挙げ、当時の情報の交流に関する考察を行ってみましょう。

一石位牌形は、主にa:頭部が直線的な切妻屋根である山型と、b:屋根の先端が反る唐破風型の2種類がみられます。

また、特に後者は五角形・四角形・丸形に細分され、笏谷石製のものが多いといった点や越前~松前まで広く分布している点などを特徴としています。

この一石位牌形は三国周辺において最も多く建てられた型式であり、その変遷としては1630~40年代に山形が多く、1650年代に五角形・四角形・丸形(唐破風型)が擁立するが、そのなかでも1660年代には丸形、1680年代には五角形が主流となるといった流れがみられ、1770年代には姿を消します。

また、このような変遷を辿る一石位牌形は、主に三国から船で各地へ移出したと考えられますが、松前では1700年にピークがあり、三国と共に衰退・消滅が起きています。

しかし、三国と同じく越前三湊に属する小浜では1642年の山型が最古のもので、1660年代に唐破風型が登場するが、敦賀では1668年のものが最古であり、1670年のピークを迎えた後すぐに廃れるというような差異がみられます。

このように、遠隔地同士では類似した変遷がみられるのに対し、隣接地域では異なった受容形態を示している点は興味深いといえます。

これらの点から、墓石から情報の交流を読み解くのは困難ではありますが、各地域における同型式の変遷などに注目することで、当時の各地域における受容形態の差異や流行の様相などを明らかにすることができると考えられます。

おわりに

みなさん、いかがでしたか?

墓石の分析では、ヒトやモノ、さらには情報などの移動・交流などに関する検討が可能です。

まず、ヒトの動きとしては、墓石に刻まれた文字情報から、湊町の隆盛の様相や被供養者の出身地の傾向などについて明らかにすることができます

。また、モノの動きに関しては、主に墓石の石材を通して当時の流通に関する検討を行うことができますが、そこからは一定の傾向(多用される石材)を読み取ることができます。

加えて、例として遠隔地において産出された石材が多用されている場合などからは、当時の広域流通の様相について知ることができます。

さらには、各地域における同型式の変遷などに注目することで、当時の各地域における受容形態の差異や流行の様相などを明らかにすることができ、それらを通して、当時の情報の動きについて検討することが可能となります。

このように、墓石における多様な要素に着目することで、当時の交流に関する多角的な検討を行うことが可能なんですね。

お墓に対する見る目も、少し変わってきそうですね。

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