【これまで約1000冊以上読んできた元修士が考える】読書はなぜ必要か? - 大学生の下剋上勉強法

【これまで約1000冊以上読んできた元修士が考える】読書はなぜ必要か?

大学生の勉強

(※この記事でわかること)
この記事では、これまで約1000冊以上読書してきた筆者が、読書はなぜ必要なのか、について考えたことを書いています。

はじめに

みなさんこんにちは、たいやきです。

みなさんは、読書がなぜ必要なのか、考えたことはありますか?

読書は何となく大事そう、必要そう、でも、なぜ必要なのか、ちゃんと考えたことはない…

そんな悩みを持っている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

今回は、そんな方に向けて、筆者なりの考えを述べていきたいと思います。

読書はなぜ必要か

読書は、どうして、必要なのか。

よく、いろんなところで言われている、読書の必要性。

筆者も、別の記事で、おすすめの本や読書の必要性、について書いています。

筆者にとって、最も読書が必要であると思う理由は、「読書は自分の身を助ける」から、です。

これ、本当です。

別にどのような学問をしたって良いし、どんな仕事に就いたって良い。

未来のことがわからなくたって、現在が楽しければそれで良い。

自分の自由、勝手なのだから。

こんな風に考えている方、とても多いと思います。

もちろん、そうです。

ただ、読書は、そんな風に考えている人を含めて、多くの人の、「選択の幅」を広げてくれます。

どういうことか。

読書からは、知識を得ることができる。確かにそう。

読書をすることによって、読解力がつく。確かに、そうです。

しかし、読書によって得られることのなかで、筆者が一番、大事だと思うのは(もちろん、これらも大事ですが)、

自分の頭で考えるようになること。これに尽きます。

逆に言うなら、自分の頭で考えないような読書なんて、あまり意味がない。

知識も、読解力も、頭が思考する際にはじめて、強力な武器となるのです。

そして、この思考力は、確実にその人を「生きやすくする」でしょう。

どんな本を読むか、どういうことが書かれていて、それに対してどのように自分は考えるか、

その本を相対化させたらどのように評価できるか…

本を読む、その行為には、さまざまな、「考える」行為が付随します。

そして、この様々な場面での「考える」ことを蓄積していくと、

「自分はこれがしたい。だから、こういうルートでやってみよう。」

「自分はこれがしたいが、そのためにこういうジャンルから情報を集めよう。」

「やばい。生きていけるかわからない。でも、たしかこういう方法でとりあえずは生きていけるはず。」

というように、思考力が磨かれていき、その磨かれた思考力は、私達のよりよい生活、生存に大きな寄与を果たします。

人は、悩むと視野がせまくなり、短絡的な決断をする。

みなさんも、そんな経験、ありませんか?

読書、そこから得られた思考力は、そういうとき、「ちょっと待って」という感覚を宿らせます。

何を学んでもいいし、どのように学んだってよい。

どんな仕事をしたっていいし、どのように仕事をしたってよい。

しかし、この言葉、何も考えていない人にとっては自分を安心させるためのただの言葉だが、

考えている人にとっては、挑戦的な意味を持つ言葉になる。

前者にとっては、思考停止させるための甘い言葉だが、

後者にとっては、何が良いか、偉いかという世間の感覚に逃げず、自分がどうなりたいか、何をしたいかを本気で考える、やや苦めの言葉である。

考えることができる人は、その思考力を通して、自らを相対化させることができる。

この「相対化」、実はとっても大事なこと。

相対化させることで、自分を客観視することができる。

客観視できるということは、冷静であるということだ。

もちろん、冷静さ、だけではなく、熱さ、情熱は必要だが、これらは冷静さを基盤としたうえで使わないと、大変なことになる。

ともかくも、思考力から得られる、自らを冷静に、客観的に眺める能力は、自らのより良い人生の選択につながる。

これに対し、思考力がない人は、他人に囚われた、他人の人生を送るようになる。

「あの人のせいだ」、「あの人がいなければ」と、

自分で道を選べない。ちゃんと考えて進めない。

エイヤっと飛び込む勇気も確かに必要で、それは称賛する。

が、何も考えずに興味本位で飛び込んで、いざつまずいたときに、何もできずにただ苦しみ、弱っていくだけ、というのは、とても辛い。

そして、結局、いろいろ尽きてしまって、後悔して、「あの人」、すなわち他人のせいにする。

自分の選択に責任をとらない。あるいはとれない。誰かのせいにするのは、とても楽。

そんな人は、他人にまで迷惑をかける。かけてしまうことにも気づかない。

自分にお熱で、自分を相対化させることができないからだ。

冷静さをまとったうえで、熱さを利用しないといけない理由が、ここにある。

情熱に使われてはだめだ。情熱を使わなくては。

学問も、職業も、自由だ。それは人の勝手だ。

だがしかし、その自由の背後には、大事な前提、大前提が存在する。

「他人に迷惑をかけない範囲なら」、だ。

ここで重要なのは、頼ることと迷惑をかけることは違う、ということだ。

頼ることは、生きていくうえで、とても大事だ。

しかし、迷惑をかけるような人間からは、人が離れていく。

他者とのコミュニケーションで成り立っている現代では、迷惑をかけ続ける、ふりまくような人間が生きていく難易度はとても高い。

頼ること、迷惑をかけること。

どちらも、自分の能力不足が招くものだが、他者との関わり方が違う。

どう違うか。

前者は、その過程で、他者の選択性がしっかりと存在する。

後者は、過程うんぬんが終わった後、大体は他者の主体性などもおかまいなしに、ある特定の行動を他者に強制する。

言葉ではいくらでも繕うことができる。

「ご迷惑だと思いますが…何卒…」

ご迷惑だという言葉が入っていても、他者の選択に委ねられているのなら、それは頼るといってよい。

反対に、「頼らせてほしいんだけど…」

といっても、そこに仕方なく他者が介入せざるを得ないのなら、迷惑に分類されるだろう。

読書をしていて思考力を持っている人間でも、迷惑人間はたしかにいる。

しかし、確率的には、思考力をもっている人間は、人間としてしっかりしている人が多い。

思考力を持っている人は、自分の器量をわきまえ、情熱を使って最大限の成果を出す。

そんな人間には、手を差し伸べたくなる。

そしてそんな人間は、自分の限界を知っているが故に、頼るのがとてもうまい。

これに対し、迷惑人間には、他者が手をさしのべてくれない。

そして、それは、自らの選択肢を選らすことになる。自由度は低くなる。生きづらくなる。

結論。だから、読書は必要だ。

そして、読書では、何を読んでもいいし、どのように読んだっていい。

ただ、「考えること」を忘れなければ、だ。

おわりに

みなさん、いかがでしたか?

筆者は、読書を今でも続けていますが、それと同時に、読書という行為の意味や方法についても、絶えず考え続けています。

みなさんの、何か考えに良い影響となれれば、大変幸いです。

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